一つの橋ができるまでPROJECT STORY
世界初のビッグプロジェクト。情熱の結晶は、日本の大動脈として何十年も残り続けていく。
プロジェクトの概要
愛知県・三重県の県境を流れる木曽三川(木曽川・揖斐川・長良川)を渡るのが、“トゥインクル”という愛称で呼ばれている木曽川橋・揖斐川橋です。世界初の多径間連続PC・鋼複合エクストラドーズド橋として大きな注目を集め、2001年度の土木学会田中賞を受賞しました。私たちはこのプロジェクトへの参画を技術力で勝ち取り、計画・設計・施工管理に至るまで携わりました。当時の担当者と共に、プロジェクトを振り返ります。
Episode01
8年の歳月を経て完成した、
2つの長大橋。
愛知県と三重県の県境を流れる日本有数の河川である木曽川・揖斐川の河口部を渡る橋が、『新名神高速道路木曽川橋・揖斐川橋』。橋長は1,145m(木曽川橋)1,397m(揖斐川橋)、全幅33.0m。世界初の5径間と6径間PC・鋼複合連続エクストラドーズド箱桁橋です。竣工から20年以上が過ぎた現在も、白い輝きを放ち、多くの車や物流を支えるトラックが行き交う日本の大動脈としての役割を担っていることを誇りに思います。私たちは、この橋梁の建設にあたり、1994年から2002年の開通まで約8年間、プロジェクトの一員として深く関わってきました。当時、第二東名・第二名神高速道路は、次代を担うスーパーハイウェイとして注目され、日本道路公団(現在のNEXCO)を中心に多数の大型プロジェクトが計画されていた時期。片側3車線、設計速度120㎞のスーパーハイウェイの計画・設計・施工管理を担うという、現在では考えられないようなダイナミックな仕事に挑戦できたことは、今思い出しても夢のような時間でした。
Episode02
A4用紙1枚に、
技術とアイデアを詰め込んで。
私たちとこのプロジェクトの出会いは、1994年12月、橋梁形式を決める一般図作成業務の受注でした。制約の多い河川内での基礎工・下部工の施工方法をどうするか、その当時の日本の技術力でこの橋梁構造形式の実現が可能なのか、迫りくる開通時期までに工事を終えられるのか。課題が山積みの中、プロジェクトリーダーを中心に技術力・知識・経験を集結させ提案したのが、世界でまだ例のなかった「多径間連続複合エクストラドーズド橋」でした。前例はない、でも私たちなら実現できる。強い想いで発注者側のトップに提案したところ認めていただき、橋梁形式が無事決定。プロジェクトのスタートラインに立つことができたのです。1995年7月、決定した橋梁型式をより実現性の高いレベルにまで引き上げる、計画設計業務へと進みました。当時は指名競争入札方式が主流でしたが、この業務は日本道路公団初となる、提案・技術力で依頼業者を決める「プロポーザル方式業務」として公示されました。A4用紙1枚に、小さい文字でこれでもかとありったけのアイデアを詰め込み挑んだプレゼンの結果は、1位。無事に受注することができたのです。設計工期はわずか4ヶ月。時間との勝負であり、社内で計画設計業務の体制を急いで整えました。この業務で、工事発注へと繋げる成果を作らなければなりません。ここから過酷な日々が始まりました。
Episode03
情熱があれば、困難にも打ち勝てる。
提案したことができない、ということはあってはならない。実現に向け、寝る間も惜しんで設計を進めました。同時に名古屋へ出張して発注者に説明、宿題をもらい、次の打合せに向けた検討・計算・設計の繰り返し。出口の見えないトンネルの中で、多くの課題や困難にぶつかりながらも全力で走り続け、何とか期間内に設計を終えることができました。その成果が認められて施工管理業務も発注いただき、竣工までの約5年間、当社社員延べ16名が三重県四日市市の工事事務所に施工管理員として入れ替わり赴任。昼夜問わず現場の立ち合い、詳細設計、施工計画の打合せ、関係機関との協議、積算、各所への連絡と、多忙を極めました。実は、ほとんどのメンバーが施工管理未経験。しかも、世界初の構造形式・規模・施工方法という未知の分野の代物。発注者も施工業者も誰もが初めてという中で、思うように物事は進むはずもなく、失敗や試行錯誤の連続でした。しかし、プロジェクトメンバーには、失敗や問題にも屈しない“情熱”があったのです。「この橋を開通させる」という強い意志と信念、 それはすなわち「使命感」という熱、さらには世界初となる橋梁に「恋する」熱であったと思います。
Episode04
地図に残り、人生の財産となる仕事。
2001年5月に上部工工事竣工。その後、橋面の工事、舗装工事、施設工事が行われ、2001年7月に竣工。そして2002年3月、未来のスーパーハイウェイの一部を担う伊勢湾岸自動車道が、湾岸弥富IC -みえ川越ICまで開通し、私たちのプロジェクトは終了しました。振り返ってみると、辛く厳しいことだけでなく、楽しい思い出もたくさんありました。「橋をつくる」という大きな目的のもと、職域や立場を越えて橋への情熱を持った仲間が集まり苦楽を共にしたことは、すべての人の心や記憶に深く刻まれたに違いありません。私たちにとっても、かけがえのない財産となりました。飛行機が名古屋上空を抜ける際、運が良ければ機窓からこの橋を眺めることができるのですが、その度に地図に残る仕事に関われたのだということを実感しています。開通当時よりも、後にこの経験を思い出す時の方が、じわじわと喜びが湧いてくるのです。そうした喜びに浸る時が、私たちにとって何よりも至福の時です。